歴史・人物

龍源寺の歴史、およびゆかりの人物をご紹介致します。
(画像をクリックすると拡大表示されます)

歴 史

龍源寺は山号を瑞雲山ずいうんざんといい、臨済宗妙心寺派の禅寺であります。

龍源寺 寺紋

開創は平安時代と伝わっていますが、由緒は不詳です。
しかしながら、境内には平家ゆかり(当時の鈴鹿市白子の地は「古市ふるいち」と称し、平家水軍の一つ「白児しろこ党」の根拠地でありました)の「青葉の笛」に関わる旧跡[青葉の竹林]が伝承されています。

鎌倉時代になりますと、龍源寺が所有する文化財「涅槃図」「地蔵菩薩半跏像」などから、寺としての活動があったことが伺えます。

室町時代に、伊勢国三重郡川尻城(現在の四日市市河原田)の城主が山門諸堂を建立し、妙心寺第三十世 江南殊栄禅こうなんしゅえいぜんじしょうして禅の修行道場としました。
そして江戸時代初期、妙心寺第百七十五世・絶江紹是禅師ぜっこうしょうていぜんじによって再興されました後、江戸中期に至りますと、臨済宗中興の祖・白隠禅師はくいんぜんじと、その高足(弟子)である東嶺禅師とうれいぜんじが滞在して禅を説かれました。

龍源寺は創建以後、寺領百石を所領していましたが、明治期の廃仏毀釈はいぶつきしゃくおよび太平洋戦争後の農地解放により、その寺有財産をことごとく失くしました。
明治以前までは、格式高い寺として檀家も僅かしか持たない寺でしたので、維持管理は大変困難を極めました。
さらに住職の居ない時もありましたが、檀信徒の篤い協力・尽力・信仰心に支えられて、現在まで連綿と法灯を受け継ぎ、開創より八百年余の歴史を有しています。

※廃仏毀釈・・・明治政府の神仏分離政策から波及して発生した、民間の廃仏運動。

※臨済宗妙心寺派について(クリックで表示)
  • 臨済宗
    お釈迦さまより28代目 達磨大師だるまだいしが西暦520年頃、インドより中国に渡り「禅」を広められ、以来中国では「北宗禅ほくしゅうぜん」と「南宗禅なんしゅうぜん」に分かれ、さらに五家七宗ごけしちしゅうへと分かれました。
    この内、日本に伝わっているのは、臨済宗、曹洞宗そうとうしゅう黄檗宗おうばくしゅうです。
    臨済宗は栄西えいさい、曹洞宗は道元どうげんによってそれぞれ鎌倉時代初頭に、黄檗宗は中国僧・隠元いんげんにより、江戸時代初頭に日本へと伝えられております。
    その後臨済宗は、鎌倉幕府の庇護ひごのもとで上級武士僧へと広まり、曹洞宗は一般民衆に広ってまいりました。臨済禅は、日本の文化史上に多くの影響を与えました。
    それが禅文化(建築・庭園・食物・芸術・儀礼・武道)です。
    • 禅文化の例
      建築:書院造り(金閣寺、銀閣寺)
      庭園:枯山水かれさんすい庭園(天龍寺)
      食物:精進料理
      芸術:墨蹟ぼくせき(禅僧の書)、水墨画、茶道、華道
      儀礼:小笠原流礼法おがさわらりゅうれいほう
      武道:無刀流むとうりゅう山岡鉄舟やまおかてっしゅう
  • 妙心寺派
    臨済宗は現在14の派に別れ、それぞれが本山ほんざんを有しています。
    これらは、鎌倉から室町時代に至るまでの期間に、中国の南宋なんそう五山ござん制度を模して、鎌倉・京都五山が定められ、それぞれの下に十刹じっさつの寺が定められた五山十刹制度の変遷へんせんを経たものでございます。
    • 妙心寺
      建武けんむ4年(1337年)、花園天皇の勅願ちょくがんによって無相大師を開山かいさん(開創者)として創建されました。
      末寺まつじは全国に3,400ヶ寺を数えます。
      妙心寺には搭頭たっちゅう46ケ寺があり、10万坪の境内には七堂伽藍しちどうがらんの建物が並び、多くの重要文化財や史跡・名勝指定の庭園、寺宝が保管されています。

写真提供:https://www.myoshinji.or.jp/(妙心寺ホームページ)

ゆ か り の 人 物

江南殊栄こうなんしゅえい禅師

開山墓

龍源寺開山。
亨禄きょうろく3年(1530)春、妙心寺住職に。
永禄えいろく5年(1562) 、 9月29日に遷化せんげ

絶江紹隄ぜっこうしょうてい禅師

中興開山塔

龍源寺中興開山。
信濃松代、真田さなだ家より帰依される。
朝廷より円覚大鑑禅師えんかだいかんぜんじの号を賜う。

白隠禅師はくいんぜんじ(1685~1768)

駿河国原宿するがのくにはらじゅく長沢家の三男として貞享じょうきょう2年(1685)に生まれ、名を岩次郎といった。
15歳の時、原の松陰寺しょういんじで出家され、慧鶴えかくと名づけられた。
19歳より旅に出て諸国を修行。五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、後に[日本臨済宗中興の祖]と仰がれるようになった。そして、全国諸寺で積極的に禅の講義を行う。

坐禅ざぜんとは縁遠い一般大衆に向けた啓蒙にも積極的で、書画をよく描き、和文の坐禅和賛ざぜんわさん仮名法語かなほうごを著すなど、禅の普及に努めた。
著書は多数ある。それらは、難解な漢文語録と仮名法語に分かれる。

  • 語録 : 「毒語心経どくごしんぎょう」「槐安国語かいあんこくご」等
  • 仮名法語 : 健康法を説いた「夜船閑話やせんかんな」等

また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和めいわ5年(1768)84歳で遷化せんげ御桜町ごさくらまち天皇より神機独妙禅師しんきどくみょうぜんじを、明治天皇からは正宗国師しょうしゅうこくし諡号しごうを賜った。

東嶺禅師とうれいぜんじ(1721~1792)

近江国おうみのくに神崎で享保きょうほう6年(1721)に生まれ、9歳の時に神崎の大徳寺で出家、17歳より行脚あんぎゃの旅に出る。
23歳の2月、ここ龍源寺での修行後、駿河するがの白隠禅師に師事する。
一時、病をえて白隠のもとを離れたが再び帰り、29歳で白隠禅師より嗣法しほうする。その時、白隠をして「我が弟子百人を超えるが、東嶺に優る者なし」と賛嘆せしめた。

この後、白隠の諸国教化に随侍して布教を助ける。
白隠の死後、師匠と同様に諸寺の求めに応じ、禅の布教に努める。

著書には禅修業の手引き「宗門無尽燈論しゅうもんむじんとうろん」をはじめ「白隠禅師年譜」等など多数ある。
書画も白隠に劣らず大胆で、独創的な世界を形成している。

寛政かんせい4年(1792年) 72歳で遷化、朝廷より仏護神照禅師ぶつごしんしょうぜんじの諡号を賜わる。

白隠・東嶺禅師 足跡碑

 白隠禅師 龍源寺足蹟

年号年齢
宝暦ほうれき8年(1758)74歳

 東嶺禅師 龍源寺足蹟

年号年齢
寛保かんぽう2年(1742)22歳
宝暦ほうれき10年(1760)40歳
天明てんめい2年(1782)62歳

平敦盛たいらのあつもり(1169~1184)

平安時代末期の武士で平経盛たいらのつねもりの子。
寿永じゅえい3年(1184)、源平一ノ谷の戦いで熊谷直実くまがいなおざねによって討たれる。
平家物語において敦盛が直実に討たれるその場面は有名であり、謡曲ようきょく「敦盛」の題材にもなった。
横笛の名手として知られており、討たれた時も「小枝さえだの笛(青葉の笛)」を所持していた。

青葉の笛(小枝の笛)
敦盛の祖父・忠盛ただもりが鳥羽院から拝領した名笛(めいてき)。
現在、神戸の須磨寺すまでらに宝物としてつたえられている。

有山主馬助

南北朝時代には有田氏が川後(川尻かわじり)城を築き、信長の北伊勢侵攻までこの地で統治していた。
北畠暦記きたばたりゃくき」「伊勢国太平記」に北畠家臣として記す。
姓氏家系せいじかけい大辞典」によると伊勢の有山氏・有山主馬助は三重郡川尻城主で、永禄11年(1568)に信長の為に亡ぼされたとされている。